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二十六日幸福な昨日に引かえ、自分は悲しみを感じた。そして、パリセードに行く。森の奥、廃れた見世物小屋、
透察の求められた普遍性は第一にそれがもつ包括的な性質に於て見出される。というのは総ての透察は常に何かの制限を持っているが、この制限が最も少ないものほど普遍性をもつことが出来るというのである。制限はその制限をもつ透察自身によっては自覚されないのが普通であるであろう、何となれば制限を意識することは制限を踏み越えたことに他ならないから。それ故この制限をもつ透察はこの制限を脱した他の透察によってその制限を指摘されても、必ずしも之を受け容れることが出来ず、ただ単に後者を反発するに過ぎない場合があり得る。処がその場合、実は後者がすでに前者を包括しているから、後者は前者を反発する理由を見ない、ただその制限を指摘するだけである。後者の透察はこの場合、より普遍的と考えられるのである。或る制限内に於ける諸問題を解き得ることは、一応、透察の資格を与えるであろう、併しそのような透察はその制限外に横たわる問題を解くことは出来ない。その透察は偏狭と考えられる。偏狭な性格をしかもたない透察であっても、その内に――その体系に於て――矛盾を含むとは考えられない時、一応の真理性はもつであろう。併しこの透察はまだ高い展望と広い領野とを支配しない。より包括的な透察がより普遍性をもたなければならない。包括的な透察は従って又多面的であるであろう。何となれば、より包括的ではない透察に較べて、それはより少ない制限――偏狭さを有つのであったが、そうすれば偏狭なる多くの透察を自分の一面とするような多面性を、それは有たなければならないわけであるから。かくて透察――それは性格的であった――の普遍性は第一にそれの包括性・多面性に存在する(論証であるならば、特殊の場合――それは制限されたる論証である――は、一般の場合――それは制限を脱却して拡張されたる論証である――に対して、反発するどころではなく、却って之に包摂されることを喜んで意識する筈である。論証に於ける偏狭は力を罩めて非難されるには値しないものとして現われるであろう。論証の真理性を保証する第一の標準は、理論の多面性――包括性――ではなくしてその厳正さであるであろう。然るに透察にとっては多面性こそ最も重大である)。
久しく主人と奴隷との社会にあった人類は、主人のない、奴隷のない社会を想像することができなかった。人の上の人の権威を排除して、われ自らわれを主宰することが、生の拡充の至上の手段であることに想い到らなかった。
答はロダンの気に入つた。
方法概念の運動に平行して対象概念の運動を跡づけることが出来ることはかくして――尤も私は簡単に書くためにアナロギーに頼ったのであるが、――存在論的に理解される筈である。学問の性格をその対象に於て見出し、従って之に依って例えば学問の分類を企てることが、如何に必然的であるかは又、今まで述べて来た処から明らかであるに違いない。
大里そんなことはないさ。学者は、文章のための文章なんか、書かん方がいいんだ。
十二月二日最後の晩
女は窓の方へ行って、カーテンを上げる。外は白々と明けかかっている。看護婦は電灯を消す。蒼白い黎明の光が窓からさしこむ。病人は一寸頭をずらして、その光をしみじみと眺める。
更に不利な運動概念は前後相承Nacheinanderに帰着する諸概念である。例えば意識概念は多く之に帰着するのが常である。意識は一つの流れに、波紋に、円錘に、譬喩されたであろう。無論このような譬喩は意識を説明するには適切であるであろう。けれども問題はかく譬喩されるようなこの概念を今の場合、即ち相互決定に基く運動の場合、にまでも及ぼして好いか好くないかである。尤も意識はそれを単に前後相承と呼ぶだけでは云い足りるものではないと云われるかも知れない。けれども例えば之を時間的持続として性格づけるならば、そのような時間的持続は正に前後相承の概念である。其はたかだか創造しつつある処の独存的概念であって、他からの決定を媒介とする今の運動を之によって理解することは、無論望みないことである。それであるから前後相承の概念――その代表的なものは或る意識概念である――によって今の運動を説明しようとすれば、茲にも亦性格の中庸化が指摘されずにはいないであろう。
加来万一……それが、僕はきらひだ。万一といふのはその事実が万分の一の公算で発生することをいふんでせう。危篤といふのは、逆に、九千九百九十九の公算で、生命が終りを告げることを意味するんぢやありませんか。いや、さうぢやない、百パーセントの効率をもつた死の衝撃を予見した表現でせう?さうであればこそ、僕は、周囲のものに、僕の最後の言葉をおくつたのだ。
さて、かういふ風に、次ぎから次ぎへと準備を進めて行きますと、今までのわれわれの生活はなんといふ隙だらけな、そして、無駄の多いものだつたかといふことがわかります。
そして、その後次々に展回される惨状に対し、この著者は科学者としての眼を次第に働かせて行くのだが、八月十日一枚のビラからあれの正体を知ると、
詩に就いて述べられたことは略々そのまま所謂芸術の一般に、又道徳・信仰等々に就いても述べられ得る。ストア学徒に従って道徳と学問とを同一視し、又スコラ学徒に従って信仰と学問とを同一視することが出来たとしても、学問は常にみずからを他の一切のものから、みずからに固有な学問性によって、区別しなければならない。
事実の上に立脚するという、日本のこの頃の文芸が、なぜ社会の根本事実たる、しかも今日その絶頂に達したる、かの征服のことに触れないのか。近代の生の悩みの根本に触れないのか。さらに一歩進んで、なぜそれに対するこの反逆の事実に触れないのか。この新しき生、新しき社会の創造に触れないのか。確実なる社会的知識の根底の上に築かれた、徹底せる憎悪美と反逆美との創造的文芸が現れないのか。
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